指先に蝶を…
ピアノがとても上手な人…
というと、どんなことが思い浮かぶでしょうか?
グランドピアノの前に座って、華やかな曲、パワフルな曲を弾いている人。
稲妻のような、目にも止まらぬ機敏な指の動き…
きっとこんな想像をするでしょうね。
フランツ・リストという作曲家は「超絶技巧練習曲」という、
名前からして何だかもの凄そうな曲を書いています。
彼自身たいへんな技巧派のピアニストで、圧倒的なテクニックで
「ピアノの魔術師」と呼ばれていました。
でも、習い始めの、今の自分の指はどうでしょう?
超絶的にスロー?
うんとがんばって速く弾いてみたらつまづいてばかり、
あっという間にくたびれちゃう…。
大丈夫、練習していくうちにだんだん速く、
大きな和音もしっかりつかんで弾けるようになってきます。
けれどちょっと待ってください。
「ピアノが上手な人」は、スポーツマンであっては困ります。
ピアノでかけっこしたり、ダンベルを持ち上げたりするのではありません。
ここを勘違いしていることが、とても多いように思われます。
それは最初に書いたように、ピアノが上手だということを、
視覚的にイメージしてしまうところから来るようです。
ピアノが上手な人は、まず美しい音色で演奏ができる人です。
歌なら美しい声、心に響く印象深い声です。
ピアノの声、つまり音は
指全体の動きというより、指先の繊細な感覚からまず生まれます。
どんな演奏であれ、
鍵盤に触れる指先こそ、音が生まれる源なのです。
パソコンのキーボードを押したり
エレベーターや駅の切符売り場でボタンを押す時と、
ピアノを弾く時の、指先の感覚が同じではありませんか?
まさか、そんなことない!……でしょうか?
指で鍵盤を押したら、
ドアが開いたり、切符が出てきたりするように、
ピアノから音が出てきた…
習い始めの時は、実はほとんどがこんな感じなのです。
もちろん最初は音符と指と鍵盤の位置をしっかり覚えることが大切ですから、
これでもかまいません。
でも小さな曲を課題にいただけるようになったら、
自分の指先を注意深く意識してみましょう。
電車の切符は優しく押しても乱暴に押しても
同じようにするりと出てきます。
でもピアノは違いますね。
乱暴に押せばビン!と割れた音になるし、
そっと押せばひそひそ声のような音になります。
また、鍵盤から指を上げる、その指先の離し方でも
音楽の感じや音色がまるで変わります。
間違わずに弾けるようになること、
早く先へ進むことだけにレッスンを重ねず、
たちどまってじっくりと
この感覚を確かめることをぜひやってみてください。
音は指先から生まれる―
当たり前すぎて少しも考えなかったことですが、
一番重要なことです。
テーブルにマグカップを置くときのことを想像してみましょう。
ドン!と置いたら、お茶がこぼれそうになるし、
とても荒っぽい、怒ったような印象になります。
イライラしたり腹が立ったときは
こんな風に置いてしまうこともありますね。
動作が心の状態を表すのなら、
ピアノの弾き方も全く同じです。
カップの持ち手の厚みや温かさ。全体の重み。
それらを注意深く感じながら
ていねいに、心を込めてテーブルに置きます。
こんな風に、
自分の身体の動きや感覚を観察する練習を少しやってみましょう。
ピアノの演奏では、指先の感覚をじっと心で観察してみて、
初めてそこから生まれる音が聴けるようになります。
身体の感覚と音の関係がわかってきたら
美しい音が出せるようになります。
指先に花びらより軽い蝶がふわりととまっても、
それをすぐにも感じられるくらい注意深くなったら—
…今度はその蝶を、
鍵盤からふわりと軽やかに飛ばせることができるのです。
これからは、ピアノが上手…と聞いたら、
この蝶が安らぐ指先をイメージしてください。
特にシニアの方は、もう歳だから指が動きません…と嘆かれますが、
ゆったりとしたテンポで音色の美しさを堪能できる曲は星の数より多くあります。
それらの曲をたくさんレパートリーにして、演奏を楽しんでください。 レパートリーが増えた頃には
かなりの速さの曲も美しく、
楽に弾けるようになっていることと思います。
ピアノの魔術師と言われたリストは、
音楽性とテクニックの両方を完璧に兼ね備えた名演奏家、作曲家でしたが、
晩年には華やかなテクニックを顕示することよりも、
音楽の表現力を一層深く追求し、
高い精神性にあふれた名曲をたくさん書きました。
美しい音色で弾けるひと。
その音色に乗せて、自分の心を表現できる人。
それが本当のピアノの上手な人、ピアニストです。
それは誰もがなれるのです。